生きていれば誰でも死を身近に感じる瞬間がある。
俺の場合で言えば
ライブを終えて走る夜の高速道路や
圧倒的な自然の力に直面した場面、
思いも寄らない体調の異変など
人それぞれにそんな瞬間があるだろう。
そんな時いつも「まだやりかけのことがあるから今は死ぬはずがない」と勝手に信じ込んでいる
自分がいる。
そうやって何とかやり過ごして今まで生きてきた。
4月6日22:00
見慣れぬメールを開くと思いも寄らない言葉が綴られていた。
訃報。
あるはずのものが突然、何の手がかりも残さず忽然と消えてしまったような感覚”何が起きてるのか?”
把握できないままただ呆然とメールに綴られた言葉を眺めている自分。
どう対処すればいいのか?
知らせて頂いた奥様への返信メールをと言葉を探すが
何を書けばいいのかわからぬままその気持ちをそのまま綴る。
平穏な日常に忘れがちな”死”は俺のような生の過信者の前に思いもよらぬタイミングで
その存在を知らしめる。
明日という時間が約束されているかのように思い込んでいる俺たちに。
生と死は一対。
生まれた命に約束されているものは唯一”死”だけなんだということ。
だからこそ生の儚さゆえの美しさも教えてくれている。
この歳まで生きていれば沢山の命との別れを経験する。
近しい人、遠い人、様々だが
今回、谷口和正さんの死はお互い”作る”ということに深く関わっている立場ゆえに
まるで自分のことのように思えるほど身近に感じている。
いつか自分にも容赦無くやって来る”死”をいつ何時も感じながら精一杯生きるようにと教えられた気がする。
先日の日曜日、谷口さんの作業場がある京都宇治まで未完の遺作を確認するために協力してくれる友人を
伴って伺った。
5月19日、彫刻家 谷口和正アート演出によるライブ「The Time of Light」を彼亡き今、共演者である
自分と家族の方々で創作者の意思を継ぎどこまで実現可能なのかを見極め段取るために。
長閑な田舎町、ところどころに茶畑が見え綺麗な小川が流れている農村地域に彼の生家と作業場はある。
奥様に案内され生家に隣接する作業場に入ると雑然と積み上げられた物や道具で溢れかえり、土間や壁には
鉄の匂いと色が黒く染み付き昔ながらの小さな鉄工屋を思わせる。
その空間には作品製作以外の生活感や趣味的な彩りを見せるものは何一つ見当たらない。
ただひたすらに鉄の板に向き合う男の姿しか見えない。
そんな中、方々に散らばるように製作途中の姿のまま遺作のパーツが横たわっていた。
予想以上に未完成な状態の作品を見て途方に暮れる。
彼はこの場所で倒れていたところを家族に発見されたらしい。
彼の作品の特徴は鉄の板に文字を型抜きし造形したものをLED電飾で光と影で文字を映し出すアート。
今回心配していたのは重要なテーマである光の表現を出来るか否かということだった。
しかしそれ以前にメインの作品をどう展示するかを考えなければならない。
散らばったパーツを集め”きっとこうであろう”と推測しながら組み立て可能なところまでやってみる。
ネジ穴も開けられていないものは針金やテープで固定してと作業をしている最中、急に不安と腹立たしさが
込み上げてきた。
客席側からは見えないからと言ってテープや針金を使いまるでハリボテのように扱っている自分たちに
無性に腹が立ち恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
こんなのでいい筈がない。
製作途中で命尽きたアーティストの想いを遂げることなど誰もできやしないのだ。
急に感情的に今の作業を否定する俺に何も言えない戸惑いの空気が漂う。
未完成ならば未完成のままの美を表現するしかない。
創作者の谷口和正以外は誰も完成図を知らないのだから。
組み立て可能な部分だけ形にし極力手を加えずそのままの状態を展示することにした。
光については可能な限り使えそうな電飾部品をカオス状態の机の上や部屋に散らばる部品の中から見つけ出し電気関係に詳しい友人のおかげで光を手にいれることができそうなところまで漕ぎ着けた。
今、作業場で見た光景を思い返すと混沌としたあの空間に散らばった作品を形作るはずのパーツや部品たちは
谷口和正の命の破片のように思える。
命と共に弾け散らばった情熱の破片。
1ヶ月後の5月19日、未完の遺作「The Time of Light」谷口和正の魂と共に自分からどんな音が響くのかが楽しみだ。
きっと谷口氏もそこに居て光で演出しているはずだろう。
共演者 照井利幸