VOICE

Year of The Band ?

2024年1月21日

昨年の12月と正月を東京で過ごした。
新作のマスタリングを早々に終え、他に予定もないので久しぶりの東京を満喫しようと方々歩いた。
ほんの数ヶ月ぶりでもあちらこちらの景色が変わっているのに気付く。
近所を散歩していると新しい家やビルが建ってたり空き地になってたりするが、その前にそこがどんな場所だったのかも思い出せない。
それに比べ田舎の景色はほとんど変わらない。
田舎暮らしを始めて今年で2年が経とうとしている。
その暮らしを気に入ってはいるが、一度やる事がなくなるとたまらなく退屈に感じる。
きっとそこでは得られない何かを求めてしまうからだろう。
ここで生まれ育っていく子どもたちも同じ。
刺激が足りなければ都会へ出ていくしかない。
今回、東京へ発つ前の数日はそんな退屈の最高潮に達していた。
俺には東京にも帰れる家があるということに改めて幸せを感じた。
東京へ戻るといつも自然に都会モードに切り替わり、違和感もなく馴染んでいく。
東京の人や街、空気、音、景色は、どこかドライで軽やかで心地良い。
きっと、しばらくの間は。

 

今回、東京でやりたかったことが一つだけあった。
それは都会の音を録ること。
地下鉄や街の雑沓、公園などをひたすら歩きながら普段気にもしないノイズをレコーディングした。
実は、昨年末に完成させた新作では、今暮らしている田舎町で日常に聞こえてくるノイズ音をテーマに物語的な作品にした。
となると、自分にとってもう一つの場所である東京をテーマに作品を作ってみたいと思うのはごく自然な成り行きだろう。
俺の頭の中ではいつでもそんなやりたい事のカケラが飛び交っている。
形にできるのはそれらのたった1割にも満たないけど、それが生きがい。

 

普段、テレビを持たない生活を送っているのだが東京宅では四六時中テレビの前に陣取り、観るとも無しに映し出される映像を眺め、この世界の現実を知る。
それが真実か嘘かはもはやどうでもいいことなのかも知れないが。
傍にはギターを置き、何か思いつく度にボイスレコーダーに録音する日々。
元旦もそんな1日のはずが、突然の緊急速報で緊張が走る。
新年が始まる日、国民の休日、家族団欒の日、そんな日にとてつもない恐怖が牙を剥く。
正月ムードは一気に吹っ飛び、何を思えばいいのかも分からないほどに心が不安定に混乱する。
そして、信じられないことに翌日には羽田での航空機事故。
なんという年の幕開けだ。
もし、この時テレビを観ていなければ、これほどまでの衝撃は受けただろうか?
これが、スマートフォンやPCだったら同じように感じただろうか?
テレビを必要としない世代にはどうだろう?
リアルタイムにあらゆるメディアから恐怖が伝染していく。
その恐怖の外側で観ている俺たちに。
思えば、13年前に起きた東日本大震災の時も同じ心境だった。
こんな時、何をすればいいかを的確に国民に示してくれるリーダーがいないことが、この国の弱さであると思う人もきっと多いだろう。
直接的ではないにしろそれぞれが自分なりの救済をしていくことがこの国の復興につながるとしか言えない。

 

 

今までの自分を振り返って今年、1年をどう生きるかというのが抱負というものなら、今年から改めてバンドを作ることが俺の抱負。
60歳にして、本気でもう一度バンドをやりたいという思いが高まっている。
最近、巷で流行っているセッションバンドとかじゃなくて唯一無二のバンド。
自分の過去を過去として認めざるをえないほどの現在進行形のバンド。
改めてバンドというものを考えてみると、それは目的を一つとした個性の集合体だ。
その目的は一つ、熱狂を生み出す音を響かせる。
それ以外のことは今は何も考えたくない。
ただ、それを目指して踏み出す1歩目は俺一人から始めよう。
今年行う俺のすべての活動はそのためだけにある。

自分の表現や手段を持ちながらも、やりきれず孤立しているアーティストたちへメンバーを募る。
性別、年齢、経歴、楽器、ジャンル、問わず。
音楽に限らず、映像や照明、パフォーマンスなど演出的な要素も含む。
同時に活動スタッフも募る。
条件は一つ、自分を表現する術を持っていること。

今年はYear of the Dragon。
年男で厄年。
人生の岐路なのかも知れない。
いつの日か、バンドが結成されることを心から願う。

 

照井利幸

 

 

ロックという時代の終わりと別れ

2023年12月25日

2023年、今年もあっという間に終わってしまう。
歳を重ねるごとに時の流れに追い立てられてるようだ。
365日、何か有益なものを残せただろうか?
1日1日を精一杯生きた覚えはない。
もうすぐ60歳にもなろうとしてる俺は未だ自分の殻を抜け出せないでもがいてる。

 

年の始まりは個展。
2月、描き溜めた絵を画集にし発表、それに合わせ個展を開催。
自分が描いた原画を初めて売った。
何とも言えない落ち着きのない心持ち。
東京滞在中に幾つかのライブで演奏する。
実験的に行なったアンビエントと即興演奏に可能性を感じる。
香川でも同様に個展を開催。

 

4月、尾道にて友人の画家白水麻也子と共演。

 

5月、京都にて鉄のアーティスト谷口和正と共演するはずが、公演間近に突然の急逝。
遺族の協力のもと残された作品と共演を果たす。

 

6月、アンビエントチームとレコーディング&ライブ
演るに連れて新鮮味を失っていくようにフェイドアウト。

 

7月、香川にてソロアルバム制作に没頭。

 

8月、香川にて中村達也と共演。
過去をなぞるようなライブ。

 

10月、ソロ6thアルバム「In Side Man」発表。
香川、岡山、名古屋にて年内のライブ終了とする。

 

これが、表立った俺の1年の活動。
こうやって振り返ってみても、消極的で覇気のない自分に腹がたつ。
何を今更、躊躇しているのか?
まだまだ、導火線に火がつけば爆発できる筈なのに。
いつになったらこの命を灰にできるほど狂い咲けるのか。

 

そんな気分の時に限って極めつけの悲しい訃報。
昔、音楽を共にした友が逝った。
いい奴ほど、先に逝きやがる。
長い間、病で倒れた後も会えずに、ただ最後に1通のメールだけ。
「新作できたら聴かせてよ」
いくつもの後悔。
どうして昔あの時、何もかも捨てでもアイツと命ごと向き合い音楽をやらなかったのだろう。
俺が守ろうとしたものは今じゃあ何ひとつ残っていないというのに。

友よ、さよなら。
今度、会った時には迷うことなくお前の歌に合わせてベースを弾くよ。
ありがとう。

 

今年は次から次へと影響力のある多くのアーティストが亡くなった。
まるでロックという時代が終わるかのように。
そして、これからはジャンルという境界のない世界が始まる気がする。
未だ生かされている自分に何ができるかはわからないが、
まだまだ全然やり足りないよ。

照井利幸

 

 

 

 

 

 

音納め

2023年11月19日

まだ11月半ばを過ぎたばかりだが昨日、年内の音楽制作に終止符を打った。
というのは、10月にソロアルバム「Inside Man」をリリースしたばかりなのだが、創作意欲が止まらず次回作となる予定のアルバムを早くも仕上げてしまった。
ただ、それをいつ発表するかはまだ未定だが。
そんな訳で、早めの音納めとなった。

 

作業部屋に散らかり放題の機材やケーブルを丁寧にバラしながら頭の中を白紙に戻していく。
俺には欠かせない作業。
それをしないと次が始められない。
それをずっと繰り返してきたんだなぁと思うと、とても感慨深い。
つい最近、遊びに来た友人にもそのことを言われた。
「その都度ゼロに戻るんですね。」と。
言われてみて思うのだが、では他の人たちはどうやって一つ一つの始まりと終わりの移り変わりを区切っているのだろう?
と考え始めて直ぐに思い直す。
初めから始まりも終わりもなく生きている人が多いのではないかなぁと。

 

結局、性格、性分、性質、ということなのだろうか。
何もない真っさらな状況など厳密にはあり得ないのだろうが、できる限り思考をゼロにして、そこに何が見えるか?何が聞こえるか?を形にすることが理想の創作だと思っている。
客観的に見れば同じようなものに見えるのかもしれないが、毎回それぞれに新しい試みがあり挑戦があり、誰も気づかないほどわずかな変化を繰り返し長い時間をかけて進化してるんじゃないかと思う。
というより、思いたいのかもしれないね。
まぁそうやって人それぞれ様々なやり方で生きることに向き合っているんだろうな。

 

なんだか、何を伝えたかったのかわからなくなってしまったが笑。
今年は多作だったなぁということで、また来年も想像力と意欲が枯れない限り作り続ける所存です。

 

最近、何かをきっかけに思わぬ方へ思考が飛んでいくことが多い。
これは歳のせいか?笑。

照井

 

 

荒野にて

2023年9月6日

煌びやかな東京から四国の古びた小さな港町に単身移り住んで早1年半。
今になってここへ来た理由がわかる。
自分の時間軸で生きるにはとてもいい場所だ。
高台に建つ家の窓からは静かな海と小さな島々、奇妙な形をした山々が見える。
夕方にはその山の背に見事な夕焼けが見える。
真っ赤に太陽が燃え、あっという間に山影に消えてゆきその残光が白い雲を芸術的なグラデーションに染めていく。
この瞬間を誰かに伝えたいと思う。
俺の場合それが音楽を作る理由なのだろう。

気がつけば来年の2月で60歳。
若い頃の余分な灰汁はすっかり抜け落ち、俺という人生の本質が剥き出しになってきた。
顕になる自分に目を背けたくなることもあるが、それを偽るくらいなら曝け出す楽しみを見つけたいと思う。

バーチャルコミュニティっていうのかなぁ?
SNSというものに親しめない自分は時代に乗り遅れてる?
世界に向けて何をつぶやく?
様々な?が浮かぶ人には必要のないものなのだろう。
俺が世界に発信できるものは自分の音楽しかない。
その音楽は希望であると信じ願いを込めて画面をクリックする。

今さら人に認められたいとか、売れたいとか、という欲はないが
あるがままの自分の音楽が誰かの心に一瞬でも響けばそれで報われるよ。

遠い過去も未来もそれは虚像でしかない。
そんなものに囚われ生きる人生はまっぴらごめんだ。
昔がどうだろうと今こそがすべて。

世の中が変わろうとも、ひたすらに俺自身の物語を作り続けたい。
それが唯一の願い。
そして新作「Inside Man」という一つの物語が今ここに完成した。

自由という名の孤独の荒野にて。

照井利幸

 

 

 

命と情熱の破片

2023年4月18日

生きていれば誰でも死を身近に感じる瞬間がある。
俺の場合で言えば
ライブを終えて走る夜の高速道路や
圧倒的な自然の力に直面した場面、
思いも寄らない体調の異変など
人それぞれにそんな瞬間があるだろう。
そんな時いつも「まだやりかけのことがあるから今は死ぬはずがない」と勝手に信じ込んでいる
自分がいる。
そうやって何とかやり過ごして今まで生きてきた。

 

4月6日22:00
見慣れぬメールを開くと思いも寄らない言葉が綴られていた。
訃報。
あるはずのものが突然、何の手がかりも残さず忽然と消えてしまったような感覚”何が起きてるのか?”
把握できないままただ呆然とメールに綴られた言葉を眺めている自分。
どう対処すればいいのか?
知らせて頂いた奥様への返信メールをと言葉を探すが
何を書けばいいのかわからぬままその気持ちをそのまま綴る。

 

平穏な日常に忘れがちな”死”は俺のような生の過信者の前に思いもよらぬタイミングで
その存在を知らしめる。
明日という時間が約束されているかのように思い込んでいる俺たちに。
生と死は一対。
生まれた命に約束されているものは唯一”死”だけなんだということ。
だからこそ生の儚さゆえの美しさも教えてくれている。

 

この歳まで生きていれば沢山の命との別れを経験する。
近しい人、遠い人、様々だが
今回、谷口和正さんの死はお互い”作る”ということに深く関わっている立場ゆえに
まるで自分のことのように思えるほど身近に感じている。
いつか自分にも容赦無くやって来る”死”をいつ何時も感じながら精一杯生きるようにと教えられた気がする。

 

先日の日曜日、谷口さんの作業場がある京都宇治まで未完の遺作を確認するために協力してくれる友人を
伴って伺った。
5月19日、彫刻家 谷口和正アート演出によるライブ「The Time of Light」を彼亡き今、共演者である
自分と家族の方々で創作者の意思を継ぎどこまで実現可能なのかを見極め段取るために。

 

長閑な田舎町、ところどころに茶畑が見え綺麗な小川が流れている農村地域に彼の生家と作業場はある。
奥様に案内され生家に隣接する作業場に入ると雑然と積み上げられた物や道具で溢れかえり、土間や壁には
鉄の匂いと色が黒く染み付き昔ながらの小さな鉄工屋を思わせる。
その空間には作品製作以外の生活感や趣味的な彩りを見せるものは何一つ見当たらない。

ただひたすらに鉄の板に向き合う男の姿しか見えない。
そんな中、方々に散らばるように製作途中の姿のまま遺作のパーツが横たわっていた。
予想以上に未完成な状態の作品を見て途方に暮れる。
彼はこの場所で倒れていたところを家族に発見されたらしい。

 

彼の作品の特徴は鉄の板に文字を型抜きし造形したものをLED電飾で光と影で文字を映し出すアート。
今回心配していたのは重要なテーマである光の表現を出来るか否かということだった。
しかしそれ以前にメインの作品をどう展示するかを考えなければならない。
散らばったパーツを集め”きっとこうであろう”と推測しながら組み立て可能なところまでやってみる。
ネジ穴も開けられていないものは針金やテープで固定してと作業をしている最中、急に不安と腹立たしさが
込み上げてきた。
客席側からは見えないからと言ってテープや針金を使いまるでハリボテのように扱っている自分たちに
無性に腹が立ち恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
こんなのでいい筈がない。
製作途中で命尽きたアーティストの想いを遂げることなど誰もできやしないのだ。
急に感情的に今の作業を否定する俺に何も言えない戸惑いの空気が漂う。
未完成ならば未完成のままの美を表現するしかない。
創作者の谷口和正以外は誰も完成図を知らないのだから。
組み立て可能な部分だけ形にし極力手を加えずそのままの状態を展示することにした。

 

光については可能な限り使えそうな電飾部品をカオス状態の机の上や部屋に散らばる部品の中から見つけ出し電気関係に詳しい友人のおかげで光を手にいれることができそうなところまで漕ぎ着けた。

 

今、作業場で見た光景を思い返すと混沌としたあの空間に散らばった作品を形作るはずのパーツや部品たちは
谷口和正の命の破片のように思える。
命と共に弾け散らばった情熱の破片。

 

1ヶ月後の5月19日、未完の遺作「The Time of Light」谷口和正の魂と共に自分からどんな音が響くのかが楽しみだ。
きっと谷口氏もそこに居て光で演出しているはずだろう。

 

共演者 照井利幸

 

響きと共に

2023年2月15日

2/5 から1週間、東京での初めての展覧会をやり終え、昨日その余韻に浸りながら作品の撤収作業をした。
当初まったく展覧会をやるつもりはなかったのだが画集「響きを求めてIn Search of Resonance」を発表するにあたって出版社の方から”展覧会をやりませんか?”と言ってもらい去年から準備を始めていた。
画集の完成に合わせた展覧会ゆえにその予定日までに肝心の画集が仕上がるか?とハラハラしながらも何とかギリギリセーフで完成し無事に展覧会初日を迎えることができた。
実は当初、予定していたのは別のギャラリーだったのだが色々な事情があって急遽”The Condition Green”で
行うことに決定した。
その場所は2015年に自主ブランド”THERE”のために自ら作ったショップであったがコロナをきっかけに去年の春に店を閉めることとなり、今はアブサンBar”The Condition Green”となって人が集う場所となっている。

成り行きではあるがその場所に帰り展覧会を開催することにとてもしっくり来るドラマを感じていた。
しかし自分の描いた絵にどれだけの人たちが来てくれるのだろうか?と不安もあったが開催初日から最終日までの
7日間、予想以上に沢山の人たちが訪れ昼はコーヒーを飲みながら、夜は美味しいアブサンを飲みながら音楽と絵に包まれ皆笑顔で楽しそう。
”やってよかったなぁ”と幸せを噛みしめた7日間。
友人たちやTHEREの時からのお客さん、ライブに来てくれてる人たちが何の隔たりもなくそこに居合わせ歓談する
様はまさに理想郷。
みんなの楽しむ気持ちがそれを作っている。

改めまして今回、画集を出版してくれたHeHe、場所を提供し準備から最終日まで展覧会をやり切ってくれた”The Condition Green”の皆さん、そして何よりもそれを楽しんでくれた沢山の人たちの笑顔に心が癒されこれまでの努力がすべて報われるようです。
心からありがとうございました。
40歳半ばから描き始め、いつしかソウルワークとなった自分の絵に救われたように感じる。

”何のために、何を伝えたくて描いてきたのか?”という自問から画集を作り東京での展覧会を終えた今、その答え
は”響きと共に”ということだったように感じました。
壁一面に飾られた自分の絵と音楽は全く同じものだったことに気付かされた。
音楽を作ること、絵を描くことは自分にとってまったく同じ行為。
まさに”響きを求めて”だった。
きっと初めから分かっていたのかもしれないなぁ。

東京での出番を終えた作品たちはパッキングされ”響きと共に”次の開催地、香川へと向かいます。

                                          照井利幸

2022年から2023年への抱負

2022年12月31日

2022年の幕開けは慌ただしく始まった。
7年やった店THEREを閉めて新たな理想を目指して東京を離れ地方へと活動拠点を
移したはいいが、予定や計画は一向に進まず足元からガラガラ崩れていった。
結局、自分が思い描く理想は自分にしか成し得ないということなのかもしれないな。
そして相変わらず一人が心地良い。

そんな感じで始まった地方での創作生活だが悪いことばかりではなかった。
なんと言ってもその景色に惹かれた。
海に見える島々、古い港町、奇妙な形の山々、挨拶を交わす老人たちの笑顔、道端に咲く色とりどりの花。
すべてが頭の中で絵になる。
そんな風景の中に佇んでいるとそれだけでもう充分な気がする。
わざわざ新しいものなど必要ないような気になる。
でもせめてこの風景に溶け合う音楽とこの美しい瞬間を描きたいと思う。
そしてそれをするためにこの場所を選びここへやって来たんだと今更ながらそれに気付く。

来年発売される初の作品集「響を求めてIn Search of Resonance」はこの風景の中で考え、
感じ、迷い、心を決め生まれた俺という歴史の結晶だと思う。

来年はどんな年になるのか?
世の中がどうなろうとも自分のできることでしか生きられないならそれを精一杯やるしかないよな。
そんな小さな叫びが誰かに響いてその響きがどんどん広がればいいなぁ。
っていうのが来年に向けての俺の抱負。

みんな良いお年をお迎えください!

照井

「独響」という理想

2022年11月5日

新作「PISCES」の完成後リリースを終え、何かがずっと心の中で引っかかっていた。
何か割り切れないモヤモヤした気持ちは振り払おうと思えば思うほど纏わりつき気分を憂鬱にさせる。
きっとそれは自分の現状すべてに対しての疑問だったのではないかと思う。
作業部屋に篭りきって音楽を作っても何も変わらない気がしてならなかった。
今まで俺は音楽を作って人に何かを伝えている気でいたが、それだけじゃもうダメなんだと気づき始めていた。
もっと外へ向けてありったけのフィーリングを伝えなければ表現とは言えない気がした。
とりあえずライブをやろう!
どんなライブ?
今までのライブでは自分の楽曲の中から独奏で表現可能な曲を選びただひたすら良い演奏を心がけ、ストイックさばかりが目立つライブだった。
シーンと静まり返った会場に痛いほどの視線と気配だけが自分に向けられ物音一つ憚られる中、1音1音爪弾く響きに全神経を研ぎ澄ます。
そのスタイルをこれからもずっと続けられるのか?
と自分に問えばそれはNOだ。
ならばどうする?
インプロビゼーション(即興演奏)でライブをやろう!
今までそういうライブをやったことはあるが、それは誰かとセッションするだけの期待ばかりが先走った
ものばかりでいつもお互いの思惑がすれ違い虚しさが残ることが多かった。
ソロならばすべてが自由で表現の幅も楽曲を演奏するときと比べ格段に広がるだろう。
音量、タイミング、展開、静寂、などすべてをコントロールできる。
何の準備も気構えも必要ない、ただ自分の響きに身を委ね心が動き出せば物語は綴られるだろう。
しかしそれは理想イメージであって必ずそうなるわけではないし簡単なことではないはずだが試すだけの価値は
あると確信があった。
そう思い立ったが吉日、すぐに会場をおさえ計6本のライブをブッキングした。
ライブまでの約1ヶ月の猶予の中で自分のイメージするライブを模索する日々が始まった。
それと同時にそれに触発され新たなレコーディングも開始する。
ライブが決まったことで脳が活性化されていくのが音の響きでわかる。
改めて自分が持っている機材を吟味し、思いつくことは何でも試し自分の中で響いている音と実際の音が一つになるように何通りものセットを試す。
イメージが閃く瞬間にそれを逃さず実行できる瞬発力と操作力を身につけるために何度も何度もいろんな
パターンで演奏してみる。
それを身につければいつでもフレッシュな気分で演奏できるし観る側は音楽が生まれる瞬間を体験することになる。
あと必要なものはといえば頭の中を空っぽにして自分を解放することだけ。
そうすれば何かしらそこに世界が誕生して言葉にはできない何かを伝えられると思う。

車に機材を積み込み今住んでいる場所から東京へ向けて音楽の旅に出た。
1年ぶりのライブというのもあってか1、2本までは上手く会場の空気を掴むことができなかったが3本目の
ライブで自分がイメージする流れにかなり近づけた。
それが自信になったのかそれからのライブでは最初に放つ音から最後の1音の響きまで心と一つになり、観客と
同じ世界を共有している実感を得た。
今まで微動だにしなかった観客の身体がリズムに乗って揺れ始めた。
それは長い間、試行錯誤して求めてきたものの一つだった。
この旅に出る時ある友人に「この旅で何か掴んでくる」と言って旅立った。
それが現実となった。
この「独響」という理想が生んだ自分のスタイルはここから始まりこの先まだまだ続く。
何処まで行けるかご期待あれ。

友人からのエール

2022年6月19日

まったく自信を失くし未来への希望が見当たらない時がある。
何をやっても裏目に出たり人と関わることが嫌になったり。
一体この世界のどこに自分の場所があるのだろうか?と。
そんな途方もない時間の中で「PISCES」を作った。
しかし出来上がった作品が自分の中で上手く消化されないまま心に引っかかっていた。
今までにない感覚だった。
それに戸惑いながらもジャケットデザインやリリースの準備をするがその消化不良は続いた。
今作の出来が如何であれ2年の時を刻んだ曲たちをそのまま眠らせるわけにはいかないと思い
記録作品として発表しようと決めた。
そして完成されたCDを数少ない友人たちに送った。
その中に自分の今を形成するのに欠かせなかった二人の友人がいる。
一人は若い頃の俺に音楽を通し世界への視野を広げてくれた先輩。
もう一人は昔から音楽について深く語り合いながらお互い歳を重ねてきた友人。
その二人からもらったショートメールに心が救われたのと同時に今作への気持ちが消化された。
二人の許しを得てここにそのやりとりを記する。

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(先輩T)
こんにちは
テルちゃん
いつもお気遣いありがとうございます
元気ですか?
素晴らしい作品が出来ましたね
照井利幸の世界です
テルちゃんと知り合いである事を誇りに思います
世界中に私を救ってくれた音楽家がいるがテルちゃんもありがとうその一人です
ウチのカミさんも長い闘病生活に入りましたが彼女にも響くと思います
ありがとう
My Hero !

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(友人D)
仕事が終わって
部屋に帰って
新しいCD聴いて
落ち着いた気分で
晩飯食べて
音の余韻の中で
あぁオレはこの人の創る音楽を聴くのが心地良いんだなぁって
素直に思えるね…
褒めすぎか⁈

(俺)
もっと褒めて笑笑

(友人D)
ちょっとカッコつけ過ぎたねー
自分で照れるワ
  笑
今、試しにインパルスとAOの頭だけ聴いてみたけどさぁ 
何故か新作聴きたくなって
また聴いてるけど
なんだろう
耳に新しいからかなぁ
もう少し時間が経たないと分からないね
まぁなんていうか
今回もオレなりに
楽しんでますよ

(俺)
俺にとっても今作は今までとなんか違う。無意識な領域で何かある気がする。この2年間様々なストレスや不安が知らぬ間に蓄積したからね。そういうの音楽に影響するからね。

(友人D)
それは感じる。
すごく安らかな気分になる。
前2作を突き詰める様な聴き方をしていた事に今作を聴いて初めて気づいた

(俺)
俺自身が音楽に救いを求めてるのかもしれないね。でもこうやって真剣に聴いてもらえて嬉しいよ。正直報われるのはそこしかないからね。ありがとう!

(友人D)
照ちゃんの創る音楽ってね
結局、自分自身と向き合う気持ちになるからね
そこが惹かれる理由の一つかなぁ
音楽って面白いね
というわけで
What I think …
を聴き出す私です
またねー

深海に射す 

2022年6月16日

新譜を手に入れたら、雑音のない自宅でじっくり堪能したいと思う人も多いかもしれない。
最初は帰ってから聞こうと思っていた。でも無理だ。待てそうもないのであっさり諦めて移動中に聴くことにする。列車は音楽と相性がいい。どれだけ人がいても邪魔されず、家の中より自由だ。

ドアが閉まる直前に乗り込んできた青年は音に良く合う。
丸眼鏡、飴色のバッグと靴、モスグリーンのポンチョ。古着なのか一点物に見える。他の人が身につけても同じようは居られない、彼だけのもの。
静かに目を惹くそのかっこよさと印象の深さが、この曲のために存在しているみたいだ。

聞き慣れない音は耳に引っかかる。
何だろうと思った次の瞬間、頭の中の自分は水の上を走りはじめた。
窓の外はのどかで想像とは食い違っているのに、現実の景色も巻き込んで物語を映す一部になる。
こうなるともう虜だ。
最初にあった音の違和感は、懐に入ってしまえば不思議とよく馴染む。
同じものを手にして違う感覚を持つ、他の人はどう感じるんだろう。違いは批判するより堪能した方が面白い。

あっという間に目的地に着いてしまった。
座席に忘れ物をしていないか確かめたかったけれど、人の波にもっていかれて問答無用で押し出される。

到着したカフェで、ニュースの通知に目を落とすと不吉な知らせばかりだ。
同じくらい自分に出来ることを必死に模索している人もいて、不安材料が山積みでも捨てたもんじゃないと思えた。
災害や戦争の影が見えると、文化芸術は必要か否かみたいな話になる。
安全を確保すること、食べることが最優先なので「そういうもの」は不要だ。それどころじゃないということらしい。
そうだろうか。
食料や安全を確保するのは大事なことだ。優先順位も上だろう。でもそれと文化芸術の必要性は別の話なんじゃないか。

本当にそれどころじゃない時は、愛情以外「そういうもの」しか手に残らないのに。

繰り返すリズムが呼吸と重なると、今生きているなとぼんやり思う。
最初からずっと音の奥がぼんやり明るい。
自分を盗られない限り、体の中で、外灯みたいに雨ふる地面に滲んでも、消えることなくずっと点いている。

コーヒーがいつまで経っても出来上がらない。
どうなっているのか尋ねる声に些細な不満を乗っけた自分は窮屈だ。
コーヒーを運んできてくれた店員は新人なのか不慣れな様子。屈託ない笑顔には同じく笑って返さずにいられなかった。動きがぎこちないのはもう愛嬌だ。
ボリュームを戻してはじまった曲の続きは、驚くほど角が取れている。

ガラス越しに通りがかった子供が手を振ってきた。赤の他人が皆一斉に手を振り返す時の謎の一体感。
隣の二人組はやっと旅行に行けるらしい。想像しては大騒ぎだ。まだ行ってもいないのに中身は完全に飛び立っている。
好きなところに行って楽しんできたらいい。
別に自分が行くわけじゃないのにこっちまで浮き足立ってきて、よくわからないけれど幸せだ。

絶妙なタイミングで拓ける音は際限なく穏やかに広がって、イメージがリンクするともう自分と音しか感じなくなる。
辺りが忙しなくても遠のくことなく、眠たくなるほど穏やかでも横並びに響いて奥底まで呼びにくる。
呼び寄せられた感情が、想いを汲みきれないやるせなさでも、気取って見せなかった嬉しさでも、離れることなく溶けてついてくる。
曲がくれる世界の中でどう生きようと、否定されることなく自由だ。

大勢の中で一人の時間を作っている名前も知らない常連客が、今日は珍しく人を連れて現れて前のめりに甘く喋りはじめた。
もう椅子から3センチぐらい浮いてそうだ。いつもの神経質な感じは微塵もない。
片面だけから受ける印象なんて当てにならないものらしい。このギターの感触も生で触ったら別物なんだろう。

知らぬ間に結構時間が経ってしまった。
広げた道具をバッグに詰めて外に出たら、晴々と歩き出す。
さっきまであった閉塞感や正体のわからない焦りは、いつの間にか曲につられて収まっていた。点滅する信号はテンポが全然あっていない。それでも時間は頑なに曲に添ってゆっくり流れ続けている。

何度も繰り返し再生して気がついた。毎回印象が違う。多分自分の中の僅かな差が違って聞かせているんだろう。
変わりばえのしない日常の中で聴く昨日と変わらない曲が、同じ様には二度と鳴らない。
誰にも気がつかれないくらい静かに確かな変身を繰り返し、ここまできたことを音で知るのははじめてだ。
変わらなければいけないわけじゃない。ただ、体感できたことは今の自分には財産だった。

自分だけの世界をくれる音楽は貴重だ。
心ゆくまで休めるし、どこまでも飛べる。
大丈夫。心配ない。
そのままで飾ることなく帰る場所はここにちゃんとある。

世の中や自分がどうあっても、そのままを受け入れてくれる音と生きるのはこんなにも心強い。

對馬 白